「もっと世界を」
散らかった暗い部屋。
曲がった右腕。
あの人が血まみれの顔で言う。
「もっと世界を」
「兄さん、入っていい?」
美里が聞いてきた。
どうせダメって言っても入ってくるのに。
「どーぞ、また数学だろう?」
「おっしゃる通りです……」
ガチャッとドアを開けて入って来る。
美里は数学が苦手だ。
しかし同じ計算が理科で出てくれば解けるらしい。
つまるところ食わず嫌いに近い。
「うわ、相変わらず何もない部屋だねー」
美里は入るなり感想をもらした。
確かに僕の部屋は一見するとベッドしか無いように見える。
だがそれは違う。
ただ壁と同色のクロゼットに全部しまってあるだけだ。
僕は散らかすのが嫌いなのだ。
美里にすればそのスペースに収まるのもおかしいらしいが。
そんなわけで美里は持参したテーブルにプリントをだす。
そしてこれまた持参した座布団に座った。
「で?今日はどんな問題かな?」
「えー、とね……」
なんでもない平穏。
あの人の体温が失くなっていくのにまだ振動は止まらない。
気持ちの悪い音が続いている。
「――!!」
突然それが知らない男の声と共に止まる。
だがそんなことはどうでもよかった。
「あれー?兄さんじゃん」
バイトから帰る途中運の悪いことに美里に会った。
学校はとっくに終わっているはずの時間なのに。
しかも美里はまだ制服姿である。
「……どうした?なんでこんな遅いんだ?男か?」
僕が聞くと美里は吹き出した。
「やーだ、違う違う、オヤジくさい事言わないでよ」
と、美里は手を上下に振りながら言う。
そっちこそオバサンみたいな事するな。
「で?結局なんなんだよ?デートか?」
「違うって言ったでしょー!?もうなんでかなーこの人は」
怒られた。
狙ってたけど。
結局、ただたんに文化祭の出し物の準備だったらしい。
でもそろそろ浮ついた事の一つ二つあってもいいだろうに。
そう思ったので本人に告げると殴られた。
……そして話題がなくなった。
まずい。
今日、話題がなくなるのはまずいのだ。
何かないか。
でも、こういう時に限って思いつかない。
「えーえっと、今日はなんか曇りだね」
「兄さん、明日の事なんだけど」
無視された。
「……明日の天気はピーカン晴れ、もしくは豪雨だよ」
「明日、父さんが帰って来るでしょ?」
こちらは必死で話をそらそうとするが無視される。
右腕がじくじくと痛み出す。
もう完全に治っているはずなのに、だ。
ちらっと美里の様子を見る。
なにがなんでも聞くつもりのようだ。
それだけ美里にとって重要な話なのだろう。
「ああ、それで?」
「十一年前、父さんは何をしたか教えて」
「本当に聞きたいのか?」
十一年間ずっと周りが頑張って隠してきたことを。
「教えて、私はその娘なんだから知っておかないと」
そう言う美里の目を見て観念する。
僕は右腕の痛みにたえながら話した。
「ごめんなさいごめんなさいまだ小さいのに……」
大人の女の人が僕に謝り続ける。
「私がああ言わなければ彼も自分の子に手をかけたり……」
「……」
対して僕は何も言わない。
何を謝られているかわからないしあの人の言葉が気になる。
「おかーさんっ」
そんな声がして小さい女の子がこちらに走ってきた。
今にもこけそうだ。
「ミサトッ、向こうに居なさいって言ったでしょ!」
「だってあっちつまんないー」
その子はほおを膨らませた。
それから何を思ったか、えへへー、と笑う。
「……」
場違いな明るさだった。
だが嫌じゃなかった。
「ミサト、ちゃん」
僕は呼んだ。
女の人が驚いたように僕を見る。
そういえば声を出したのは何日ぶりだろう。
「なにー?」
ミサトが僕の方を見て首を傾げた。
僕はその頭を折れていない左の手で撫でた。
話し終わると美里の顔は青ざめていた。
僕は右腕を摩りながら話した事を振り返る。
なるべく自分の感情を入れない様にしたがどうだろうか。
「僕は明日は友達の家にでもいるから」
「え……うん、わかった」
それから無言のまま家につく。
そして玄関から居間へ入ると。
どこかで見たような光景だった。
「おかえり」
そういって振り返るその人はいつものその人じゃない。
背筋がぞわり、とした。
その人はそれから刃物をふりかざす。
そして僕の方に……。
だが前とは違いその人の初めの標的は僕じゃなかった。
美里だった。
美里はぎりぎりで避ける。
「母さん、どうしたの?」
「……あいつと私の子よ?将来が恐ろしいから、そう……」
その人、美里の母は錯乱しているようだった。
右腕が痛い。
「あいつが帰って来る前に……!」
そういって彼女は包丁を振りかぶる。
美里はそこで避けようとしてこけた。
前にも見た場面。
ただし今度は。
「……っうぁァ」
「兄さっ……!」
僕はあの人の立場だ。
「……この子もあいつの血が流れてたわ……とどめを……」
聞き覚えのある鈍い音。
「うあ……ああっ」
叫ぶ。
痛い。
血が。
流れて。
目が霞む。
「……兄さんっ」
美里の声が。
僕の耳に。
届いた。
それと同時に。
僕の心に。
何かが、燈る。
ああ、なるほど。
あの人も。
こんな気持ち、だったのかな……。
かわいいかわいい僕の義妹よ。
「もっと世界を……」
2007/06/17