「・・・あったかい」
暗い部屋の中で、少女は重い溜め息をつく。
机に頬杖をつく少女の目の前で、部屋に灯った唯一の灯りである蛍光灯が微かに揺れた。
怒ってるんだろうか。
それとも、やっと分かったかと思って満足してるんだろうか。
昨日の朝ああして別れてから一度もあの人は現れていない。
ああ言えば、私もあの人も満足だと思ったのに…今になって、私はとても寒い。
あの人が戻ってきてくれたら…そう思いかけて止める。
どこまで私は勝手なんだろう。私の側にいてもあの人は大変なだけなのに…
そもそも言い出したのは自分じゃないか。
いつものように「いってらっしゃい」と言ってくれたあの人に、
いきなり私が放った言葉…
「もう…私と一緒にいてもあなた苦労するばっかりだしさ…
他の人、探した方がいいよ…」
今思えば、酷い言葉だった。もしそれが真実だったとしても、
優しいあの人はきっと傷付いただろう。
もし?そんな余地のある甘えた思考をしてはいけない。真実なのだ。
あの人は私といても、辛いだけ。
今まで私はどれだけあの人に、甘えてきた?
愚痴り、八つ当たり、目の前で泣いては無理なお願いをして困らせて。
出来る恩返しはあれだけだったのだ。優しいあの人が自分を責めなくていいように。
「大っ嫌い」
…ああ言えば、あの人は私を憎んで誰かもっといい相手を探せる…
私はなんて傲慢なんだろう。今更になってあの人を思い遣る振りをしてる。聖人気取り?
最後まで私は嘘吐きだった。
あの人は私が他人のために嘘を吐くととても悲しい顔をしたのに…
最後まで、直せなかった。
…なら素直にしてれば良かった?自分の気持ちのままに、あの人に甘え続ければ良かった?
あの人は優しくて、何をしても大抵受け止めてくれた。
それをいいことに、私は我儘の限りを尽すどころか
あの人の優しさに物足りなさまで感じる様になっていた。
そんな人間に…愛される権利はない。
愛する事も満足に出来ないのに、どうしてあの愛情を享受出来ようか。
あの人にとって私は嘘吐きで馬鹿で最低な人間。それでいいじゃないか。
何にせよ私は、あの人に嫌われる事が出来た…多分。
…多分?私は自分に甘すぎる。いくら独りが…寒いからって。
あの人は恋人と言うより兄という感じだった。
いつも楽しそうに私の世話を焼き、
子供扱いするなと言っても巧いこと私をはぐらかしてしまう。
私が悩んでいればふいとやってきて相談に乗ってくれたし、
私が何も言いたくない時は黙って抱きしめてくれた。
…というか、冬は部屋にいる間ずっと抱きしめてなかなか放してくれなかった。
細い体をしているくせに結構力が強くて、
私が恥ずかしいからと逃げようとしてもその腕はびくともしないのだ。
あの人が私をからかい、私が言い返しながらも笑い。
恥ずかしながらも、とても幸せだった…
でもあれは、もしかすると…構って『もらって』いたんじゃないか。
本当に子供じみて幼稚な私に、あの人は構って『くれて』いたのでは?
だとしたら、最初から私は勘違いをしていた事になる。
…当然だ、私は愛されるような人間じゃないんだから…
あの人は誠実だ。嘘は吐かない。
だから…あの「愛してる」の意味は、私が思っていた意味と違っただけ。
そして…誠実だから、私が「もう来ないで」と言ってしまった以上、
もうこの部屋には来ないだろう。
それでいいんだ。だってもう、「大っ嫌い」と言ってしまったんだから。
それが偽善でも、あの人を傷付けることでも、甘えでも、後悔の種でも…もう、どうでもいいんだ。
あの人が抱きしめてくれる時には、この部屋がこんなに寒いなんて知らなかった…
でも、もう…
少女の後ろの闇がざわめいた。
直後。
「むくむくクラッシュ!」
「ギャアアアァァ!?」
奇襲を受けて物凄い声を出す少女を、彼は毛布の上から抱きすくめた。
「ちょっ…え…?」
毛布に体がくるまれているのに気付き、少女はさらに驚く。
心臓が激しく鳴るのを感じながら少女は振り向き、それから彼を見て黙り込んだ。
「風邪、ひくよ」
彼が微笑んだ。いつもと変わらない笑顔で。
「なんで…?」
少女が弱々しく尋ねる。
彼は少女の表情を見てから、少し悩み、それから悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「なんでって、寒いから風邪ひくんだよ」
少女はきょとんとした顔になって、しばらくしてから怒りだす。
「違うっそうじゃないっそうじゃないでしょっ」
怒りながら少女は泣き出した。
言葉が出て来なくなり、漏れ出てくるのは鳴咽ばかり。
彼はそんな少女を抱きしめ続ける。
「ごめんね、ごめん」
「…何…が…っ?」
「不安になったからって来ないでいてごめん。
でもそうだよね、君はいきなり僕に本心から大っ嫌いなんて言う子じゃないよね」
少女は答えずに泣いた。正面に顔を戻してしまった少女の髪に、彼はそっと顔を近付ける。
「ごめん。もしかすると今ので余計追い詰めた?」
少女がぶんぶんと首を横に振った。
ばさばさと振られた髪に彼は思わず顔を引いてから、笑った。
「…良かった」
彼の声を聞いて、少女が声をあげて涙をこぼしはじめた。
彼は驚いて目を丸くしてから、目を閉じて少女を強く抱き締める。
だいぶ経った頃。
「あのね…」
少女が弱々しく呟く。彼は少女を見遣り、そっと腕を緩める。
「私、わがままで…偽善者で…」
少女の小さな声に、彼は静かに耳を傾けた。
彼の様子をうかがいみながら、少女は言葉を続けていく。
「何するにも…あなたには迷惑しかかけられないんだなって…」
そろそろと少女が手をあげ、自らを抱く彼の腕を掴む。
「だから、あんなこと、言って…でもそれも…迷惑だったし…」
それきり少女の言葉は途切れた。
少女はしばし何を言おうか迷う素振りを見せていたが、困ったように彼の腕を放す…
と、その手を彼の方が掴み返した。
驚いて少女が振り向いた先には、穏やかな笑み。
「…寒かった?」
彼の唐突な質問に、少女は目を瞬かせる。
彼は微笑みのまま返事を待つ。
しばしして、少女がこくりと頷いた。
彼は少し頷き返すようにして、言った。
「お互い様だよ」
「え…」
少女が戸惑う。彼は少女の手を握ったままで続ける。
「一度は離れてみたけれど、寒くなって戻ってきてほしくなったんだよね」
「…うん」
「僕もだよ。嫌われたかと思ってちょっとすねてたけど、
寒くて一人じゃいられなくて」
楽しそうに笑いながら、彼は少女に毛布をかけなおしてやる。
少女の方も自分から毛布を引き寄せてから、椅子を回して彼の方に向き直った。
うつむきがちな少女の前に、彼はそっと屈み込む。
「でもさ…あなたは私じゃなくてもいいんじゃないの?」
少女はぽつりと言い、それから暗い表情になって彼から視線を反らしてしまう。
彼は不思議そうな顔で言った。
「でも僕がもし別の奴の所に行ったら、誰が君を暖めてくれるんだい?」
少女がはっとしたような表情を作る。彼はすぐに無邪気そうな笑顔になる。
「うわぁ、僕今すごく傲慢なこと言ったかも」
少女はうつむきがちなままで、彼をもう一度見た。
「じゃああなたは、いつも私のために側にいてくれてるの?」
彼は答えずすぐに手を伸ばし、少女の頭をわさわさと撫でる。
「きゃ、止めてよっ」
思わず少女が頭に手をやる。彼はひょいと手を引っ込めて笑った。
「僕自分勝手だからさぁ、君じゃなかったらいじりたくないんだよね」
軽い口調と穏やかな笑顔。
少女はそれを見て、今度は微かに顔を赤らめて目を反らす。
乱された髪を手櫛で整えつつ、
「何で?」
と問う。
彼は即答した。
「好きだから」
少女が手を止めた。
「もちろん、嫌になる時もある。日によっては妹みたいに思うし、人生の師だと
感じることもあるよ。でも…」
背を伸ばし、自分の髪を梳かしながら彼は言った。
「やっぱり、大切なひととして、君が好きだ」
少女は見上げるだけ。呆気にとられたような、力の抜けた表情で。
彼はやけに真剣な表情で言い少女を見つめていて…不意に嬉しそうに笑って少女
を抱きしめた。
「きゃ」
少女は驚いて声をあげてから、ゆっくりと彼の背に腕を回した。
毛布の上から抱く彼の腕は、それでもしっかと少女を捕え。
「…ごめんなさい」
「いいんだよ。お互い様だ」
「…ありがとう」
また泣き出してしまった少女を見て、彼は苦笑する。
すすりあげながら少女は彼にしがみついて泣く。
彼は黙って、ただ抱いていた。
暗い部屋で、泣き顔のまま、少女は彼に縋りついたままで囁いた。
「…あったかい」
彼が穏やかな微笑を浮かべて囁き返した。
「…お互い様さ」
2006/12/10