銀氷
『「そうなんだ。にいさんはいつもそうなんだよ」』
覚えている兄はいつも落ち着いた表情で、大概幼いほどの様で言い争いをしている両親を静かにじっと見据えている。
それは多分、両親の言い争いを近くで見ている時には不安になって兄を見上げる癖があったからなのだろうと思う。
その次に浮かぶ兄の姿は、自分に笑いかけてくれている優しい姿だ。
兄は年が離れていたのもありとても背が高かったから、どんな時でも見上げていた気がする。
兄は本を読んでいたり、勉強をしていたり、そうして静かに一人でいることが多かったけれど…
こちらがじっと見ているのに気付けば必ず遊んでくれたし、そうでなくても沢山かまってくれた。
いつもかばってくれるのもそうだ。いじめられていた時も、親に怒られた時も、多かれ少なかれ助けてくれたのは兄だった。
…けれどどこか…まるで世界の全てを知っているのではないかと幼心に思うほど…兄は冷静な気配をいつも孕んでいた。
大好きな兄。大切な兄。けれどその冴えた雰囲気を感じる度、嫌われているのではと脅えてしまっていた。
「そうなんだ。兄さんはいつもそうなんだよ」
脅えからくる怒りに任せて、何度そう喚いただろう。
それでも兄は冷静さを失うことはなかった。
「僕はそうだ。お前は違う。…いけないことかな」
そう言われると言い返せないのだ。
別に兄は口だけのひとではなかった…冷静な分だけ成功するひとだったから、余計に言い返せないのだ。
そんな兄はとても遠くにいるように見えて、寂しくて、少し怖くて…それでも大好きだった。
だった、のに。
『…覚えてる?そう言ったこと』
まだ幼いころ…八歳くらいのときだったろうか。
兄が、消えた。
泣いている母、うつむいた父。
その日の印象はそれくらいだ。余りに驚きすぎて、他にほとんど覚えていない。
素行に悪いところなど欠片もなかった兄が、何のまえぶれもなくその日いきなり帰ってこなかった。
連絡もない。誰も学校のあとに兄を見た人もいない。後に警察が調べたが、近場で何かが起きた訳でもない。
本当に兄は消え失せたのだ。ある日突然、跡形もなく。
兄がいなくなって数年は、家族の全員がひたすらに兄の手がかりを探した。
けれどそんなもの、一つたりとも見つからなくて…
一つの塊の四分の一がえぐりとられた不安定さは、不気味で苦しくて痛くて不快で怖かった。
両親もそうだったんだろう。
十年もたったころには、兄の話題は家庭に上ることはなくなった。
冷静な兄の影は、一人暮らしを始めても頭の奥をちらつく。
無意識に兄の真似をしていたりもする。そう…冷静に振る舞おうとして、何度も挫折したのだ。
その度に、兄は本当に手の届かない存在なのだ…そう感じた。
『忘れている?お前、そう言ったよ』
昨日のことだ。
電話が、かかってきた。
落ち着いた男性の声で…聞き覚えのある響きの声で。
「…兄さん?」
そう言うと、電話の向こうでその声が静かに笑っていた。
『声、変わったね』
僕?僕は少々危険な仕事に就いてる。お前には一生関わって欲しくない仕事…それ以上は言えない。
言いたくもない…関わらせたくない。…駄目だ。絶対に…お前には言わない。
…大変な仕事だね、確かに。…そんな事。聞かないでもらいたいよ…
…でもそれなりにやっているよ。…お前は?…そう。そうか…お前がね…無理はしない方がいい。
頑張り屋だけどお前、体強くないからな…そうかい?まぁ無理だけはしない方がいいよ…お前らしくやるのがいい。
それは言えない。何処にいるかなんて…会えないよ。お前とだけは会えないよ。
…どうしても。どうしても。…どうしても、だ。
お前、きっと僕を恨むよ…
「恨まないっ…恨むわけ」
ないだろ。
そう続けようとしたのを、向こうの声が遮った。
『…もし、居場所を言ったら…』
落ち着いた声。
いつも通りの様に、感じる。
『僕を探しにきて、くれるかい?』
だから驚いた。それは兄らしくない、言葉。
「行くよ、俺…絶対」
暫く向こうは黙っていて。
『お前と僕…似てきたね』
笑みを含んだ優しい声がそう言って、ぷつり、と回線の切れる音が続いた。
電話の前に、ずっと立ち尽くしていた。
どうして、一番言って欲しいことを言い残して切るんだろう…それを考えるので、精一杯だった。
それが兄の声を聞いた、最後に、なるのだろうか。
かちゃり。
「………ありがとう。」
2007/07/15