青の豊穣
男は走っていた。
昼なお暗い村外れの森を、一人男は駆けていく。
村長の家から盗み出した、青い剣を上着に隠して。
村外れの森といえど、子供達にはいい遊び場だ。
しっかり隠して行かなければ、彼等にいつ見付かるかわからない。
男は走っていく。森の向こうの河を目指して。
ふと男は立ち止まる。
何処か霞んだような景色。何より冬にしては寒くないか。
「何してるの?」
背後からかかった声に、男は驚いて振り向いた。
男の後ろに立っていたのは、未だ幼さの残る少年。
村の子供だ、見付かった、そう思い男はうろたえる。
それから少しいぶかしむ。
こんな子供が、片目を目隠ししている。病か何かで視力を無くしでもしたのか。
黒髪に黒の隻眼の少年は、子供らしい所作で男の手元を覗きこむ。
目をそらす男に、少年は不思議そうに問いかけた。
「村長さんの剣?」
男が答えをつくる前に、少年は無邪気に笑った。
「お祭りで使う剣?神様を鎮めるやつ」
この村の神を思い男は微かに脅えた。
鮮やかな青の翼を持つ、忘れな草色の目をした肖像。
村の全ての豊穣をもたらすが、神聖を穢した者の存在は赦さない…
今までに何人もの背信者が祟り殺されてきた事実が、村を縛り続けている。
少年は男の恐怖にも気付かない様子で言う。
「じゃあさ、おじさんは今月の御霊鎮めのひと?」
その言葉に男が我に帰る。
数瞬悩んで、男は微かに頷いた。
「へぇ、凄いや!頑張ってね、おじさん」
少年はそう言って笑うと、身を翻し木々の間を走っていった。
男はそれを見送ると、溜め息してまた森の奥に向かった。
青が冴えわたる…
死を伴って迫り来る…
ただ清くあるを望む故に…
森を歩きながら男は思う。
村の小さな神殿にある肖像、横顔を見せる神のことを。
何処か鋭い輪郭を持つ、目が痛くなるような青の翼。
伏せられた目もまた鮮烈な青。忘れな草の色とも言われる、静かに鮮やかな色。
若者の姿の神の手には、古びた髑髏…
その眼窩からは穀物の若苗が何処か幸せそうに綺麗な葉を広げている。
祟り神にして豊穣神。
神の持つ二面を示すその肖像を見る度に、男は恐怖に囚われるのだ。
もしかするとその二面は、表裏などではなく…
奇妙な感覚に、男はふと顔をあげた。
森の木々の合間から、爽やかな晴天が見える。
先程子供と話した時には、曇っていたのではないか…と。
風景は灰色に近い色に霞んで、いたような。
それにしても、あれから子供を見ない、男は思った。
この森は穏やかな森…あの神の森だから、奥まで子供は遊びにこられるのに。
村の方で何かある日だろうか。
男は首を軽く横に振る。もう何もかもどうでもいいのだ、と。
あの神が死んだら、村はどうなるだろう。実際に恵みは失われるのだろうか。
男は微笑した。
たとえしばらく苦しくとも、時を経れば皆生き方をみつけだす。
人とはそういう生き物だ…
男は青い剣を握りしめた。
もうすぐ森を抜ける。
森を抜ければ河、そして滝がある。そこは…
涙の跡を頬に残し眠る息子…痩せ細った体…
よろめく足で立ち上がる男…よぎる知識の記憶…
神殿にあるという神の穀物…一月は飢えを覚えないという…
男が家へと駆けもどる…両手を金の穀物でいっぱいにして…
森を歩きながら男は顔をしかめた。思い出すのが恐ろしいのだ。
しかし記憶はおかまいなしに過去を再生する。
笑う息子…年端も行かない子供…
恐れていなかった死が恐ろしくなる…生への執着…
村長の家…神を脅かし得るただ一つの武器…
男は首を横に振り、立ち止まる。
自分が殺されること自体はいいのだ。しかし自分が死ねば息子は…
そう、息子のためなのだ。慈愛故の凶行。
誰にも責められることでは、ないのだから…
「正当化は済んだの?」
突然かかった澄んだ声にはっとする。
そこはすでに森の外だった。開けた空、河、滝…
男が驚愕する。
先程まで晴れていた空は白灰色に染まり、冷気が嫌に静かな中を漂う…
当然のことだ、河も滝も完全に氷結していたのだから。
そして男の目を釘付けにした何よりのことは…河辺にいた二人、だった。
「ね、おじさん」
片目を隠した少年…
そして彼にもたれるようにして眠る幼い子供…男の息子。
何も言えないでいる男を少年は黒い眼で悪戯っぽく見つめた。
「一緒に遊んでたんだ。父さんがおでかけでさびしいよって言ってたから」
男はうろたえながら少年に歩み寄る。
「村の方に行ったんだと…」
少年が黒い髪を揺らして笑う。
「馬鹿だなあ、森のことは僕たちが一番知ってんだよ」
無邪気な笑い。
男が動けずにいる間に、それはすっと冷めたように消える。
「で、自己正当化は済んだの?」
純粋な口調で紡がれた問いに、男ははっとした。
「何の…ことだ?」
「やだな、とぼけちゃ駄目だよ。おじさんは御霊鎮めのひとじゃないんだろ」
目の前の少年が恐ろしくなる。息子は何故あんな風に眠っているんだ。
少年は眠り続ける子供をそっと草の上に横たえると、男に近付く。
「おじさん、知ってる?神殿に泥棒が入ったんだ…」
不気味で仕方がなくなった。男は剣を一瞬見る。
「神様の穀物が盗まれたんだ。あれ、食べると半日くらいで眠りこけちゃうんだってさ…」
少年がちらりと男の息子を目で示し、男に笑いかけた。
男は叫んだ。
そして剣を振り上げた。
青。
冴えわたる刻。
清きを穢すは赦さない…
痛い程の寒さに、男は我に帰った。
青い剣が、地面に食い込んでいる。
少年は、いない。
息子の姿も、ない。
河と滝は凍っていた。
いや…
天青石色に、結晶している。氷ではなく、宝石として。
曇ったような空もまた同じ。天青石色に止まり、何かを反射して煌めいている。
男は動揺して再び地面を見た。
無数の細かな結晶。青い剣も僅かにそれに覆われ、美しさを増している。
ひらひら、と。
舞い落ちて来たものを見て男は動けなくなった。
鮮やかに美しい、青い羽。
ひらひら、くるくると。
「泥棒程度じゃ怒らないよ…」
見上げる。
天青石色を背に、青い翼が羽ばたく。
少年が、笑っていた。
黒い髪が、黒の一つ目が、青と灰色の間の色に包まれて。
「な…」
何故、そんなはずはない、そう言おうとした男の口が止まる。
少年は目隠しに手をかけほどく。
閉じられたもう一つの目が開かれ…
そして男は理解した。
凄烈な神の青を見て。
肖像がなぜ横を向いていたのかも…
開かれたのは、青。
「つまり、反省しないどころか自分は正しいと言わんばかりに…僕を傷付けようとしたから」
青と黒の眼が男を見つめ笑う。
天青石色の中、二つの色はよく映えた。
顔色を失った男は、違和感に気付き自分を見る…
その時にはもう、男の体は足元から凄い勢いで結晶していっていた。
男は叫んだ。幾度も、幾度も。
美しい青を背負い、少年は愉快そうに笑い続ける…
数日後、男は河辺で見付かった。
腐りきり、骨だけとなって。
ただその頭の部位だけは、見つからなかったが。
同じ頃、ある一人の幼い子供が神隠しに遭い帰ってこなかった。
その年は、いつにも増して豊作だった。
それにしても、畑の一角から掘り出されたのは誰の頭蓋骨だったのだろうか。
2007/03/25