黒曜双繭
…それは、とても美しいものだった。
森と同じ色をした体を閃かせ、その生き物は軽々と少女を飛び越える。
少女は呆然としてそれを見遣るだけ。
ふわり、と長い鬣がなびき、しなやかな足が体をしっかりと支えて着地する。
三対の翼を大きく広げ、その生き物は瑠璃色の怪物を真っ直ぐに見た。
怪物が、伸ばしかけて止めていた触手を再び蠢かせ、
森の色をした生き物を捕えようとする。
長く軟らかな尾をしならせて、森の翠の生き物は跳躍し、
鋭く大きな爪で触手を打ち払う。
ぐぎぃいいああ!
怪物が怒りの声を上げる前で、再び鬣をそよがせて着地したその生き物は、
ぐいと身を張った。
すぐ後ろで立ち尽くす少女の耳にぐるる、という鍋の煮たつ様な音が届いて、直後。
全く音のない、蒼に金にぎらつく炎を、森の翠の生き物が瑠璃色の怪物に吹きかけた。
ぎぃぐぁぁあおぉぉっ!!
瑠璃色の怪物が絶叫した。
蛇の様な体にずるずると触手や足が収まっていき、
身をのたうたせて怪物が森の奥へ逃げ去っていった。
最後まで呆然と少女はそれを見ていて、
翠の生き物が少女に向き直るまで自分がどういう状況なのかすっかり失念していた。
それは、竜だった。
少女の身長の1.5倍程の位置から、黒っぽい眼が静かに見下ろしている。
「嫌だっ…あのっ……助けてくれた…かな…」
森の空気と同じ色をした竜は、少女を黙って見ているばかり。
先程から一声もあげない。
「えっと…できれば…襲われたくは、な…わっ」
少女が言っているのを聞いているのかいないのか、いきなり竜は羽ばたいた。
翠の柔らかな羽毛に覆われた鳥の様な羽と、
二対の、虫のものの様に透き通った細い羽とが、
冷えた森をさらに凍えさせる様な風をおこす。
少女が驚く前で、翠色の竜はふわり、と宙に浮かび、次の瞬間。
「っわああぁぁぁぁぁっ!?」
少女も宙に浮いていた。
後ろ襟を翠の竜にくわえあげられて。
「何っなにっ?!放してよぉぉっ!」
少女は必死で叫んでから、本当に放されても危ないと思い出す。
「きゃああ!」
森の木々をかいくぐりながら、竜は少女をくわえたまま飛んだ。
ほんの少しして、竜は急に減速したかと思うと、
そのままふわりと着地し少女をそこに放した。
それからすぐに竜は舞い上がり、身を翻して元来た方へと飛び去った。
「…何?」
少女は驚きつつも辺りを見回す。別に森の外まで連れてきてくれた訳でもない。
森に差し込む光が深い青みをおびてきた。もう日が落ちるのだ。
少女は少し震える。
「寒い…」
この森は相当気温が低い。家で寝た時の服で少女はいる訳だから、
余計に寒く感じているだろう。
少女は考えた。
夜になり、このまま眠ったとしたら命を落とすのではないか、と。
少しでも暖かい場所を見付けようと一歩踏み出して、その瞬間一つの方法を思い付く。
あの竜の傍らなら。
もちろん危険だろうと少女も思った。
しかし、あの瑠璃色の怪物がいるここにいるのも同じ位危険だった。
少女は意を決して、竜の去った方へ歩きだした。
思ったよりも短い時間で、少女は再び竜を見つけた。
翡翠の森の奥に大きな岩があり、中程に横向きの大きな裂目がある。
そしてその裂目から、翠の尾が少し見えていた。
もう夜は更け、森の上にちらほらと見える空は暗い。星の一つも見てとれなかった。
森が淡く光ってでもいるのかもしれない。
少女は岩穴の様子を見ながらかたかたと震えていた。夜になって余計に冷え込んでいた。
少女は恨めしげに黒い夜を見上げる。
硝子のように、刃物のように冷たい空だ。
少女は意を決して岩に近付く。岩の裂目はそれなりに高い所にある。
かじかむ手指を必死に広げて、少女は岩を登り始めた。
凹凸の多い岩だったので、少女も言う程の苦労はせずに登りきれる。
翠の尾。この竜はどちらかと言えば鳥に似ている。
鱗ではなく柔らかい羽毛で全身が覆われている様だ。
思ったよりもその裂け目は広かった。少女なら立っても何の問題もない。
少女が静かに、ゆっくりと奥に向かう。
翠の竜は眠っているようだった。鬣はふわりと広がっていて、美しい。
いい加減寒さが限界に来ていた少女は、ほとんど何も考えずに竜に近付く。
柔らかそうな翼が広がっている。
巣、と言えるのだろうか、森の木の葉を敷き詰めた上で竜はぐっすりと眠っているようだった。
少女はそっと竜の傍らにしゃがみ、慎重に翼を持ち上げる。
少し重かったが、少女は静かに静かに翼の下に潜り込んだ。
少しの間、少女は緊張して微動だにしなかった。
が、すぐに思っていた通りの温もりにため息して目を閉じた。
柔らかい羽毛がとても心地よい。少女は不思議な位あっという間に眠りに落ちた。
ものの、数秒後。
竜が消し炭色の眼を開いて、自らの翼の下ですっかり眠ってしまった少女を見つめた。
…それから、何事もなかった様に眼を閉じて、翼が少女にしっかりとかかる様にした。
目を覚まして直後、少女は自分が何処にいるのかすっかり忘れていた。
だからもう少し眠ろうと、寝返りを打った。
目が、合った。
「ぇわあぁぁぁぁ!?」
寝ぼけて変な声を上げて、少女は飛び起きた。
消し炭色の眼をした竜は、鳴く事なく少し下がった。
一瞬お互い、動きを止める。
竜の様子からして、少女が起きるのをずっと待っていたらしい。
消し炭色の眼が黙って少女を見ている。
「あ…その…寒くて、それで…」
通用するかわからない言い訳をしつつ、竜からじりじりと離れる。
と、不意に竜が少女から目をそらす。
直後、ばさりと三対の翼を広げ、一瞬の内に竜は岩の外へと飛んでいってしまった。
「えっ!待って、そんなっ」
少女は置いていかれた恐怖やようやく感じだした寒さに、竜を追おうと岩を急いで這い下りる。
大きく羽ばたきながら、翡翠色の竜は真っ直ぐ飛んでいく。やはり、速い。
少女は必死で走った。裸足だが、苔の森ではさして辛くはない。
「待ってよーっ!」
一応叫んでみるが、竜が戻ってくる筈もない。
あっと言う間に竜の姿は、色のせいもあって森の空気に溶けてしまった。
少女は成す術を失い、走るのを止めてはぁはぁと息を整える。
ほんの少し悩んでから、少女は再び走りだした。
ここで止まっているのが怖いからだ。
何にせよ竜の行った方に向かう位しかない、そう思ったのだ。
柔らかな苔。
美しい木々。
所々を流れる清流。
静かな空気。
そして。
2006/03/05